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日常の中で [美術]

人間国宝展
無形文化財」とは、芸能、工芸技術等の「わざ」そのものを指し、その「わざ」を高度に体得している個人または団体が体現する。そして、国はこの「わざ」のうち重要なものを「重要無形文化財」に指定および認定し、その継承の支援と保護を行う。
人間国宝は、重要無形文化財保持者として各個認定された人物である。

工芸品の数々。人形や陶器もあれば、刀、和紙、竹細工など多岐にわたる。
民芸品というのは、家の中にあり、使ってすり減らしていくものではなく、観光地のおみやげやで目の当たりするもの、という印象が残念ながらある。すぐれたデザインというのは、わたしは機能性を備えているべき、とわたしは考えているし、その形、技術には意味がある。日本の伝統技術の継承という意味で未来に技術が遺るのだろうかと、こういう展示会をみるたびに不安に思う。

VTR室でみた染織家さんの一人(佐々木さん?)が、織り上げる作業の際、手の一瞬の狂いが布をダメにするというコメントを流していた。メモをとっていなかったので、記憶でものを書く無礼を許していただきたいのだが、日常を丁寧に生きるという意味のことを興味深く語ってらした。呼吸を整え、心臓の鼓動を感じ、指先まで神経をゆきわたらせ、澄んだ状態で作品にとりかかる、という意味のことを言っておられた。素なのに、こちらの背筋がのびるようなさわやかで、とても、きれいな女性だった。豊かさとキビしさと、悲しみ怒り、喜び楽しみがきちんとこのひとの中に備わっていて、そうでなければ胸をうつ作品などできはしないのだ。とおもった。よくポジティブに生きるとかなんとかいうけれど、明るければいいのではなく、怒りや悲しみを感受できない作家なんて手にとる価値はない。太鼓をたたいて騒いでいるかのような騒々しい作品になるんじゃないかと、街を歩いていて思う。

あと、染織家の志村ふくみさんの作品が昔から好き。糸を染め、機を織る。このひとのきものには命が宿っている。生き物のようにゆらめいている。今回の展示しているのは好みではなかったけれど、このひとの世界はあこがれている。


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故郷の作家 [美術]

富本憲吉記念館
陶芸家富本憲吉氏の記念館。奈良県北葛城郡安堵町にある、富本憲吉氏の生家を記念館として手入れして,昭和49年(1974)に開館された。
カメラを忘れたので、違う機会にアップしますが、当時大地主だったという富本家にふさわしい、門構えです。私費でイギリス留学も果たしていますが、なるほど。と思います。
安堵町の資料館に車をとめて、西の路地に入っていきます。車が通れるほどの巾もなく、歩くしかないのですが、溝にはきれいな水が流れて、ざりがにでもいてそうな、懐かしい町並み。
氏は、よく大和の草木をスケッチし、それをデザインしておられますが、なるほど、朴であり、でも少し色気のあるそれらは、生活と密着した生々しさでもあったように思う。
帰り道もひょいと車で駐車場からでれば、自分が見慣れた風景に出くわし、この芸術家と自分は時こそ違うけれど、同じ風景をみてるのだ、と思うと感動します。わたしは、ものをつくるひとは美しい場所にいなければならないと思う。きちんと空がみえて雲がみえて、川が流れるところに。自由勝手な草木の生きる場所に。偏見かもしれませんが。そういう意味で自信をもちます。
わたしが行ったときは、大和時代と東京時代を中心に組んでいました。パネルのコトバを読むと、終戦を迎え。占領を受けやるせなさを感じます。なんとかして、自分の国を遺そうと、工芸にはげんだ姿も推測されます。あっさり、ハリウッド映画ばかりをありがたがる今の日本のあり方をちと考えたりしました。

敷地内に、工房があり、今は何曜日かに陶芸の教室があるようです。定員制なので誰もが受講できるわけではないですが、田圃の稲穂が風に揺れ、つくつくぼうしの鳴き声がきこえるこの場所でなら、陶芸したいなあ。とも思いました。
10/13金~16月まで、この工房の作家さん(生徒さん?)の作品展が同記念館であるそうです。

ただ、ちょっと残念だったのが、(予算の都合もあるのかもしれませんけれど)、館内が清潔できれいなのですが、庭が少し自由奔放に草が生えているのがちょっと気になりました。就学するこどもたちのために、机や椅子を自作し、生活を美しく。美しい食器で食すことを愛した作家が、草ぼうぼうの庭を好んだとはちょっと思えない。同じでないにしろ、手入れはもう少ししてほしい。どれが植えてあるので、どれが生えてきたのかちとわからんかった。

「先生が使っておられた」という離れは、もんんのすごい落ち着きます。しんとして凛としてる。そしてクーラーもないのですが、残暑の中も意外と涼しい。昔の家はいいです。
今週末は京都の国立近代美術館の「富本憲吉展」にまいります。生誕120年、ということはこの間みた藤田嗣治と同じということになります。今月はあちこち行くので、たのしみであります。


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笑顔のとりかた 「ロバート・キャパ展」CAPA IN COLOR [美術]

神戸の元町の大丸にて「ロバート・キャパ展」CAPA IN COLOR
きれいでしたね。色が、昨日撮影したもののようです。60年近くたっているとは思えない。こんなに鮮明なのかと。
空が青いんです。とにかく青い。こんなに空は澄み渡っていたのかとおもった。だから、戦争してるのはにんげんだけなんですね。
人間が戦争しているのに、航空部隊や護送船団の写真にうつるクルーや整備士は、ほんとにスタッフとして仕事をしている。そして、戦争って仕事になりえるのだ、と思う。
パイロットやスタッフ、兵士が「いい顔をしてうつっている」んです。ふつうの人だ。食べて寝て誰かを愛している人だし愛されてる人だ。家族のいる人である。
そして、このひとたちが、飛行機に、そして武器を手にして基地を出発すれば、帰ってこないかもしれないということ。そして、大量に爆弾をおとして、そして手にもった銃をもってして人を殺しにいくということ。この異常さと戦争における正常性が受け入れがたかった。それでいて、哀しい。連合軍にいながら、勝者の喜びではないような気がする。戦争から解放された喜びをとりつつ、逆転する憎しみの構図をとり、勝っても哀しいのだ。
わたしはいい写真とは被写体とカメラマンの意気(息)が合わさったとき、呼吸があったとき、信頼が成り立つ一瞬になり得ると思う。その写真をとりたい、というより、その人をとりたい。という意志が強く感じる写真がとても好きだ。だからこのひとは、男女かまわずほれっぽいだろう。
著作を読んでも、つきあいのいい、バクチ好き、女好きの魅力的な男性であったことを感じさせる。ふつうのひとを撮影した笑顔がとてもいいので、とびきりのひとだったように感じる。ハンガリー生まれで、国を追われたユダヤ人。自国をもたぬことと、自分の言葉を話さぬまま、戦場のカメラマンとして名声を得ることは、業のようなものだったのだろうか。

最後に20分ほどのフィルムを流していたが、その中のソビエトの農婦の3枚の写真が印象に残る。
「わたしは夫を二度なくした」という農婦
(二本の指をたてる農婦の写真)
キャパは
「それじゃあ、こんどはぼくと結婚しよう」といったという。
(農婦の笑顔の写真)
中年の女性のとびきりかわいい笑顔だった。
哀しくてつらくて、たまらないのに、ほんとうのやさしさにふれたときだけに返せる笑顔だった。
こんなふうにひとをほほえませるなんて、それだけですごい人だと思う。


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商業の淘汰 「江戸の誘惑」 [美術]

神戸市立博物館「江戸の誘惑」を観る。
最終日なので、大混み。電話で混雑具合をきいて、「朝イチが空いている」「昼前にはどうしようもなく混みだす」と予想したのに、開館早々に大混み。お昼時には逆に空いていた。
会場に入ると、人の頭だらけで、絵がみえない。ちぇっ、この中にまじるのかよっ。そして、「ふう」と息を整えては、参戦。
しかし、美術館って開館時間なんとかならんのかしらね。平日夕方5時に閉める。京都国立博物館や奈良県立美術館は曜日によっては、遅くまであいているが、それはほんの一握りで、大抵は5時。土日にものすごく混む。人の後頭部ばかり観て、美術館キライな人が多いんじゃないかしらって思う。

話を変える
美人画、特に遊女の絵も多かった。その中でも遊女を文殊菩薩の化身みたてる絵がある。彼女たちを快楽の対象とだけみるのではなく、家庭における母性とは別の、遊女ならではの一種の“母性”が、当時のひとの救いであったのかとも思う。家庭での母性の否定ともいえるし、でも、おおらかに共存していたのかとも思う。絵師は男だから“母への憧憬”の屈折したカタチにもみえて、想像は尽きない。
先日スコットランドの美術館展を行ったのだが、あの、西洋絵画をみてモネとかがなぜ、日本の浮世絵に衝撃をうけたのか、なんとなくわかるような気がした。色を筆で重ねて遠近をだしていくのに対して、細い筆で頬や指の輪郭をとり、まるで家の骨組をみせるかのように、むき出しの遠近。その緻密さ。色と無の空間。あきらかに現実とは違う、絵でしか表現できない漫画的な表現。日本に漫画が根ざしたのはわかるような気がする。
浮世絵の「版画」は商業であったという面。版画という印刷。版元という存在。技術だけでなく売るセンス。民衆を引きつけるセンス。淘汰したものが現在残っていることになる。好きなことだけ描いているのが、芸術にいくのではない。商業の中で淘汰されたものが、芸術となるのか、と思う。後世を感動させるには、ものすごい淘汰があると思う。


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