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現在と過去と  「被爆のマリア」 田口ランディ [本]

夏は日本の中で、もっとも「戦争」が学ばれる時期だと感じる。が、「戦争」がどんなにコトバを紡いでいても、いまだに封印されていることがあること。そして、過去の「教科書」になりつつあるのを、また、とめられない。
最近、戦争モノが増えたように思う。が、韓流に対抗する悲劇モノとして扱ってる印象をもつ。正直観る気がしない。観てから言ったほうがいいとは思うが、メロドラマ仕立てにつくられたものよりも、現代との接点。無関心から関心へ。でもどこか冷めた手触りのあるこの短編集は正直であると思う。

日常の中の、戦争体験の投入は、平和の中の一種異物である。でも、異物から波紋というか、考えることをはじめることから考えると、わたしは大抵のメロドラマ仕立てのものよりも、入りやすいと感じる。今は、戦争体験を再現し、わかろうとするよりも 距離があるということを認識してから、間合いを詰めていく作品がもっとあっていいと思う。

この作家さんの登場人物は、空虚でありながらどろっとした感触がある。カナシイよりも名前のない憎しみを感じる。


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現代のからくり [本]

「食の裏側」 みんな大好きな食品添加物 安部司 東洋経済
食品業界の裏側、現代“食文化”の裏側、食べ物のパッケージの裏(成分表示)。食品添加物を売る商社出身の著者の添加物告発本。

昔、食品会社のたとえば工場なんかにバイトやパートで働きに行った人の話をきけば、「あこ(あそこ)の商品、もう食べへん」ということをよくきいた。製造過程をみていると、「とても食べられたもんじゃない」というのである。
学生時代は栄養学専攻だったので、ビタミンCも、B2も、食塩も薬品、粉として見ている。だから、この本を読んでも、驚かないっちゃ驚かなくて、「そういうのは仕方ない」と思っていたけれど、やっぱり少しは気にしようかと思わせる。

職場でたまたま、別のテナントの事務員さんと話す。彼女は共働きらしく家事が大変だろうと思って「総菜なんか買ってきたりするの?」と問えば、「楽なんだけれど、なんか変な味がするからあまり買わない」と答えていた。
ずっと前からだが、コンビニのエッグサンドの具は手作りは味が違うのはなぜだろうとおもっていた。たまごに塩こしょうとマヨネーズを入れたらできるものだが、どうもそれとは別の「調味料」が入っているような味がする。わたしは卵の味も塩の味もマヨネーズの味も知っている。
そういう味には、からくりがある。本を読めば、舌が感じていたことがナットクであります。

読みやすい文体である。恐怖をあおろうと思うのが意図ではないのはよくわかる。書いてある内容も疑問をもたせて、からくりを提示する。製造者の要望から、添加する経緯を空かすなど、わかりやすい。
ただ、多くの人に読んでほしいなら、1400円という金額はいかがか。
家庭の台所を預かる主婦に多く読んでほしいのなら、もっと価格を下げる必要があるようと思う。


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すりかえられないもの 「なんくるなく、ない」よしもとばなな [本]

よしもとばななの沖縄。
ほんと、と、嘘。本物と偽物。気持ちのほんとさ。大きいこと。マニュアルではないことの真実。ていうのを、今回は沖縄を舞台にしているが、感じる。このひとにとっての沖縄はそういう舞台なんだろうな。
いいのか、悪いのかわからないけど、へんな矛盾があって、矛盾のあることはにんげんの業であるけれど、やさしさということをモノにすりかえていることのニセモノさに鈍感でありながら、ブランドバッグは本物に執着する、みたいな。異訳なのですが。豊かになったといいながら、大切なはずなことが、いろいろすりかえられてニセモノになっていることをこのひとも感じているのだなあおもった。
やはり、本を読んでもらうがええです。日常雑記みたいなものですが、日常雑記だけど本にできるっていうのは、やはりこのひとは特別な感受性と自分の言葉をきちんともっているひとなのだろうと思う。
このひとの筆は、どんな社会のどぶみたいなところをみていても、陰惨さがないのがいいです。


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運命の相手に出会ったら? 「袋小路の男」絲山秋子 [本]

指一本触れないまま、「あなた」にひたすら片思いを続ける女。袋小路にすむ男を想う女の12年間。

とあるところで、勉強していたとき校内のコンクールで「純愛」というテーマがでた。講師の一人が「結ばれないこと」と、一つの定義をだし、なるほど、とおもったが、それを聞いたときには、略奪女の話を書いて提出した後だった。「ははは」仕方ない。でも1次は通過した。でも、最終には残らなかった。
清いことが純粋だとはいわない。経済力も性格もよくないどうしようもなく、でも魅力的な男に惹かれたときは、ほんとうに自分がどうしようもない。プラス、そんな男にさえ、何にも与えられることなく思い続けるってのは、「好き」以外のなにものでもない。美しい男女のメロドラマには、ライバルだとか、身分であるとか障害がつきものだが、目に見える障害はなにもないけど”相手の気持ち”や”相手の行動”であっても、自分の気持ちが捨てられないときって一生のうちにあったりする。しょうがないから、持ち続けるしかない。純愛とはメロドラマのことじゃあない。

絲山秋子さんは「男と女」を書く。オスとメスではない。オスとメスの生体をもった1セットの人間を描く。オスのからだを持ちながら、オスの部分とメスの部分をもつ男と、メスのからだを持ちながら、メスの部分とオスの部分をもつ女。からりとしてみえて、いじけてて、単純でかなしい。甘いけど酸っぱい、辛い。梅の果肉が入ったキャンデーのように、日常だか、よそいきか。疲れたのか、辛くいきたいのか、わかりにくいおいしさ。

片思いの話である。主人公がかわいい。カップルというより、奇妙なコンビで。結婚してなくても、骨を拾う。なんてことが言えるのは、もうそれだけで「運命の相手」。想っているのに肩すかしあう。表題作のほか、その続編(姉妹編?)というのがくっついているのだが、これを読むと、一見片思いの女がどんなに自分勝手か、という視点がみえかくれして、笑いがこみあげてくる。どんな相手とセックスしても、会うことをやめられない男女というのは、不可思議だけど、ひとつの理想におもう。

今や芥川賞作家となった絲山秋子さんの作品。わたしは、今まで読んだ作品の中で、一番好きですわ。二人芝居で、ちょっと悲しい理想的なコメディになりそう。


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ジャパニーズ・ファンタジーの扉 「花豆の煮えるまで」 安房直子 [本]

山のふもとの旅館の娘小夜は山んばの娘。小夜の母親は小夜を生むと山に帰り、風となったという。小夜は深い山の中を歩き、風の音の中に母の声をきく。
母と父のなれそめ「花豆の煮えるまで」からはじまり、「風になって」「湯の花」「紅葉の頃」「小夜と鬼の子」「大きな朴の木」の短編連作。

よく、普段の生活をどう過ごすかが、創作にかかわってくる。ということをいわれるが、今回の「花豆が煮えるまで」を読むと、この作家さんは、ふだんからとてもきれいなことばを遣う方のよう。ことばを変えると、世界が変わるのではないだろうか。こどもじみた、こども向けの言葉遣いではない。ほんとうに、まっすぐとした語りかけであるのに驚く。

自分のところに雨が降るときは、母のところはどうだろうか。と母を想う小夜に、寂しさとやさしさをみる。ほんとうは、感じること、そのもの中に、さみしい、という感情や想いはない。だが、季節のうつろいや、ふとみる雨の滴を通して誰を想うことの中に、「さみしさ」をみいだすことはある。感じることの確かさを、ことばの中に視る。


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戦争という”ごっこ”の中で 「となり町戦争」 三崎亜紀 [本]

ある日届いた「となり町」との戦争の知らせ。町役場から敵地偵察を任ぜられた“僕”。だが音も光も気配も感じられず、戦時下の実感を持てないまま。それでも戦争は着実に進んでいた―。

日本で、国内で、となり町との戦争をする。という発想がまずすごいとおもった。思いつかないですね。
読みながらずっと、舞台、そして「一人芝居」の画が頭にうかんでいた。自己と外界の世界がものすごく隔たりがあり変わった世界。戦争、という非日常が、役場や職場という日常の中にとけこむことになじめないまま、話は進む。戦争というものの概念が、憎しみや国の利害によってもたらされるものではなく、町の事業であり業者も存在する。でも傭兵は参加してはいけない。戦争は人殺しが目的ではなく、「戦争の結果」人が死ぬことがある。なるほど。とおもった。

主人公は結局、死体を直にみることもなく、“危険地域”を通りこそすれ、弾丸がからだをかすめたわけではない。でも、町の広報誌には、戦死者の数が載り、自分と関わった人の死が知らされる。 証拠はない。体験でのみ実感するのに、きいて、読むだけの数値や情報にどれだけ、実感が伴われるのであろうか。それは、現代の今の読者である自分たちにもいえる。が、ある意味この作品自体、巨大な「ごっこ遊び」や、一人の男の妄想であるようにもみえて面白い。
現実にある戦争で、本当に人は死ぬし、生活は追われるが、起こす本人たちにとっては、ただの妄想が端を発しているにすぎない。ともとれる。だから、映像化するのではなく、男一人の一人芝居にして、観るもの感受性に問う手段が面白いとおもった。


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いつ卒業するのだろう 「ご当地キティ完全カタログ ハローキティBOX」 [本]

書店で見かける。以前、友人同士で、行く先々で当地キティを購入して交換した。彼女が買うものと、自分の買うものが、よくまあダブらないものだ、と感心していたら、なんと850種類あるそうである。無限にあるような気もしていたが、やはり一応、限りはあるのね。だが、こうしている間にも一匹ずつ、新たなキティが生まれているような気がする。宇宙のように膨張してるではないか。

いろんなキティちゃんがいて、珊瑚礁を被っていたり、富士山にのぼっていたり、なんというか、あの無表情な顔で「なりふり構わずお金を稼いでる」なあ。と感心する。あんなに、芸人顔負けのかぶりもので、表情も変えずに営業している様子をみると、キティちゃんてプライドないのね。とも思うし、キティちゃんは当然一匹ではないのだ、とか思ってしまう。
女の子は必ず一個は持ったことがあるであろう「キティちゃん」だが、ひとはいつ「キティちゃん」から「卒業」するのだろうか。ちょっと気になっている。


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感じていることの大きさ 「夏の庭」 湯本香樹美 新潮文庫 [本]

小学6年の夏、ぼくと山下、河辺の3人は、人が死ぬ瞬間を見てみたいという好奇心から、「もうすぐ死ぬんじゃないか」と噂されるおじいさんを見張ることにする。ところが、見張りをはじめると、おじいさんは死ぬどころか、日に日に元気になっていくようだ。少年たちとおじいさんの、交流がはじまる。

日本にもすばらしい児童文学がある。驚愕。児童文学というと狭義に感じられるけれど、これはこどもを主人公にしなければ成立しない世界。見えるものと見えないもの。怖いものと怖くないこと、生きること死ぬこと。ひとという生き物の中には何がつまっているのか。生きるということは、何がつまっているのか。少年たちは、夏の景色に、おじいさんの姿に、仲間の行動や言動に、親の視線に問いかけている。苦しくなるテーマなのに、太陽の光りをみたら駆け出して忘れてしまうような男の子の動く力が跳ね返している。笑わせてくれる。おじいさんから、草花の名前、家事の仕方、戦争のことを教えられるが、わかる、知識を増やすという記述ではなく、それに対してどう感じていたのか。主人公の目を通した景色と色と気持ちの描写が、目の前にあることの奥にある本質を探りだす。その過程が繊細ですばらしかった。

まだ、10代も前半のとき、あそんでばかりだったけれど、イライラや不安もあって、多分、こういったことを深い深いところできっと感じていたようにおもう。でも、感じてたこと、感じないままに大きくなってしまったこと。こどもだから、わからないわけではない。こどもだから、感じていることの大きさを思い出す。

児童文学者協会新人賞 児童文芸新人賞 ボストン・グローブ=ホーン・ブック賞他受賞多数。映画・舞台化にもなり、知っている人は多いだろうが、知らなかった。ずっと持っていたい本。


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彼女であって彼女でない少女(わたし)たち「永遠の出口」 森 絵都 [本]

少女のわたしは、「永遠」という言葉を恐れていた。紀子の12歳からはじまる、友達、恋、仲間、教師、学校、卒業・・・。ひとりの少女の10代。
永遠、「今、ここにある」「今がすべて」ということは、多くの作品、多くの作家が取り組む命題を、お揃いの鉛筆。仲良しとの休み時間。やわらかいタッチで、陽だまりのような文体の中でみる。

前髪と密造酒のくだりで、親のつくりだした社会という幻想と自分の現実の折り合いのつかなさの息苦しさと矛盾に真っ向かぶつかって、(章のタイトルは忘れましたが)あの章が印象に残った。
10代のもてる世界は、進学先が違うだけで、もう、月よりも遠くに行ってしまうがごとく距離に感じるほどの視野や世界である。だからこそ持ちえる濃密さと、その濃密さをそのまま原液で飲めることの胆力が、かつて自分の中にあったのかな、と、思う。通過儀礼だとわたしは思う。
クラスに学校に紀子のような子はたくさんいたと思う。が、わたしは、彼女と重なる部分もあるけれど、大半は重ならない。たくさんいたように思う、女の子たちの中で、皆、紀子と重なる部分があって、ないのだろう。ああ、当時同じ世界にこういう子がいたのだろう。とおもった。接することなく、想像することも知らない自分が、喋ったことのない女の子たち。少しその平均値の、当たり障りのなさを感じする・・・。
成長というのは見えない通過儀礼、洗礼かとおもう。


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着地点  「逃亡くそたわけ」  [本]

21歳の夏は一度だけ。ためこんだ薬を服用して自殺未遂で入院させられた病院から、あたしは逃げ出す。恋人は別れたばかり、家族は帰宅を許してくれない。どこへ行こう。
逃げるのに思いつきで顔見知りを誘った。24歳の茶髪で気弱な会社員。おんぼろ車で九州の駆け抜けるふたり。躁病の女と欝の男。夏の物語。

福岡の女”花ちゃん”と自称“東京”実は名古屋男の“なごやん”との逃避行。精神病院から抜け出したとはいえ、主人公の頭の中は実にクリア。幻聴がある以外は。
逃げれば逃げるほど、追い詰められる。眠れない夜。薬がきれる恐怖。ぼんやりさせられる薬、病院から逃れても、薬を手放すと自分がどうなるかわからない。病院の壁を越えることはできても、本来帰るべき場所の扉をあけて中にいれてもらうことはかなわない。あけてくれる扉がない、安心できる囲いのある場所がないのを知っていながら、遠くへ遠くへ“どこか”を求めて移動し続ける。眠れない夜、眠れる夜を重ねながら。淡々とした文体の中にあるあせり。すぎゆく時間と“健全”さをもつ人の社会の中への着地点を求めることを想う。


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